内発的発展のための地域の景観という財産 その1

はじめに
景観はさまざまな土地利用がつくりだす。私の居住する館山市沼・岡沼地区のモザイク状に入り組んだ農村的な景観を一つの例として内発的発展の上での価値を考えたい。
旧集落は、丘陵に食い込む小さな谷津の河岸段丘の上に成立している。稲作・枇杷を中心とした果樹・菜花を中心とした畑作の専業農家が2軒ある。集落の建物は代替わりと並行しながらここ20年ほどの間にモダンなものに姿を変え、藁ぶき屋根はトタンでおおわれた2棟を残すだけとなった。朽ちかけた火の見やぐらが通りに残るが、二階建ての家より低い。建て替えとともに多くの生垣は破壊されたようで、大きなものはあまり残っていない。集落にアクセスする市道は丘陵の端を切り通しにして真倉地区から宮城地区へ抜ける。丘陵は凝灰岩質の泥岩から成り立ち、ほぼ垂直に切通しされているが、風化して堆積物が緩い斜面をつくりだすところがある。また、コンクリートの擁壁でおおわれているところもある。
集落の生垣
この旧集落の景観上で重要なのは生垣・高垣である。イヌマキが中心的な樹種で、マルバマサキ、ヤブツバキなどが混ざる。高さ4m前後の高垣もある。緑視率100の通りもある。高さ2mほどのもので、育成に60年かかったという。刈込などの手入れは、大半が農家の当主の手により定期的に行われている。壊滅的に放置されたものはない。だが、近い将来、当主の高齢化などにより刈込が不可能になる可能性がある。また、今のところ、道路の拡幅などの計画はなく、開発による消滅はないだろう。しかし、生垣そのものは私有財産である。長く空き家だった家の代替わりで、建物の建て替えと、宅地用地拡張のための擁壁工事で高さ3mはあったイヌマキの生垣が消滅した。景観は「無主物」であると私は考えるが、景観をつくりだすものそのものが私有物であるがためにもたらされた大きな損失である。
丘陵の斜面
丘陵の斜面は旧集落の裏山になるとともに、枇杷を中心とした果樹園として利用される。農家の裏山の斜面の下部には多くの水分供給を好むモウソウチクマダケが植栽され、竹林という景観をつくる。竹林はタケノコの利用、農具などのための稈の利用などにより、かつては間引きの効果があり、適度な密度に保たれていた。現在では農具の材料供給としての竹林の利用はほとんどなく、放置されているのが現実である。尾根筋にまで分布を広げてしまったところがある。傘をさして歩けるのが竹林の理想的な密度と言われる。定期的に伐採し、竹炭・竹酢などに加工することが一つの方法だろう。なお、斜面下部には若干のスギが植栽されたことがあったようだ。50年生ほどのスギ植林地は谷津奥の斜面にみられる。
急傾斜地や西・北向き斜面には果樹園はほとんどなく、果樹園が造成される前の斜面の大半はマテバシイ薪炭林でおおわれていたと考えられる。マテバシイは自然植生ではない。牧野の植物図鑑では九州に自生とある。本来の自然植生ではスダジイ、アカガシ、タブである。常緑樹の森林であるためか、林床にアズマネザサはほとんど生育していない。暖地的な要素であるフウトウカズラが林床、さらには樹幹に巻き付いている。フウトウカズラはコショウ科の植物で小さな赤い果実が実る。辛味はほとんどないが胡椒の香りがする。果実の活用を考えたい。
マテバシイ林は、薪炭林としての利用が無くなり、50年が経過したと思われる。このため、胸高直径は40cm以上になり、大きくなりすぎ、伐採も難しくなっている。このまま放置ということになるだろうが、老齢化したのち、どのような経緯をたどるかは不明である。マテバシイは地域本来の森林植生ではないことに留意する必要があろう。
果樹園は20年ほど前に夏ミカンなどかんきつ類中心から枇杷中心に移行している。いずれにしても草刈がきちんと行われ、明るい景観をつくりだしている。フキ、ミツバ、ノビルなど暖地の「山菜」が多く自生する。(続く)