『童子』1月号に批評掲載
童子吟社『童子』2016年1月号に次の評論が掲載された。原稿を紹介する。編集作業で、文に変更があるので、その際には雑誌本文にあたってください。
「童子」十一月号月評 「私にとっての八月」 山岡蟻人
十一月号の珠玉童子は衝撃的だった。終戦忌、原爆忌、忌日の句が並ぶ。辻桃子主宰は観賞文で次のように述べる。「八月は戦死を詠む月だ。」この八月は戦後七十年の節目だった。
珠玉童子の多くの作者と世代の上では重なる。だが、私はこれまで戦争をめぐった句を詠んだことはない。戦争に無関心ということではない。俳句を生み出す感慨が育っていないのだ。私にとって八月とはいったい何だったのか。
八月という視点で句を読みすすめた。さまざまな思い出が引き出されてきた。東京の郊外で過ごした子ども時代の八月は夏休み真っ盛り。昆虫少年の私は朝から晩まで外を飛び回っていた。
来し方も行く先々も草いきれ
丸山好枝
黒揚羽ひときは大き一頭来
田代草猫
背丈を超える芒の原っぱの草いきれを思い出す。原っぱに隣接する畑や新興住宅の生垣に繁茂する枳殻の葉を緑色の芋虫がもりもり食べる。やがて夏型の大きな黒揚羽になる。
みんみんの力むや腹のへこへこと
根岸かなた
みんみん蝉は今より少なかった。取り逃がさないよう、どきどきしながら網をかぶせたことを覚えている。胸部の動きに目が行く余裕はだいぶ後のことだ。
鬼やんまゆるゆる廻り戸の外へ
丘めぐみ
善福寺池の岸辺で網を構えて何時間もやんまを狙った。
空蝉の二百はあらむ善光寺
前 壽人
夕方の庭では蝉の幼虫が次々と穴から出てきた。小さな穴を見つけて棒で釣り出すのがおもしろかった。
玄関の扉の熱く蚊喰鳥
辻 桃子
やがて、庭や空き地を蝙蝠が飛び始める。いろいろな方法を試みたが、捕まえることはできなかった。
かなぶんや宿題の灯に額寄せ
安部元気
水銀灯消すもせんなし舞々蛾
大島 節
夕食後は、たまり始めた宿題だ。兄妹で丸い座卓を囲んだ。かなぶんや蛾が卓の上に落ち、大騒ぎになる。毒蛾を見極めてつまみ出すのは私の役目だった。
炎天下引揚船の人なりし
加藤晃規
父親がシベリアに抑留された友達がいた。農家だった。舞鶴に帰国した人の名前を読み上げるラジオ放送を何度か土間で聞いた。「また居ないや」というつぶやきがせつなかった。この句で、かろうじて、太平洋戦争に関わることを思いだした。
三十代、八千代市の屋敷林の調査で何軒も農家を訪れた。玄関の脇はたいてい仏間で、多くは長押に軍服姿の写真が並んでいた。戦没者だ。定年を迎え、農作業をしながら住み着いた村の旧家も似たようなものだ。
村で暮らすようになって、感慨の持ちようが新たに加わってきた。
水見えぬ田に分け入りて二番草
袖山 篠
野生植物が繁茂する八月は作物も繁茂させなければならない。除草は大変な仕事だと身をもって感じるようになった。
雨乞の田植囃子に雨来たる
松尾むかご
出穂の香やをみな五人の古希祝
桜庭門九
三畝の田圃を借りて五年ほど米作をした。溜池から水をポンプアップしなければならなかった。旱が続くと溜池の水位がどんどん下がり、ポンプが利かなくなる。穂が孕むときの水が不足しがちになる。毎年のようにやきもきした。
驟雨果て畑にどつさり茗荷の子
横山宵子
百本はあらうか茄子の支へ棒
西沢 爽
重たきは残り西瓜や猫車
やまだなつめ
胡瓜畑枯るるばかりとなりにけり
斎藤月子
野菜はつぎつぎできてしまう。農家は早朝から暗くなるまで収穫しなければならない。夜は選果と出荷の作業が待っている。人手がいくらあっても足りない季節だ。そして、ある時ぱたと収穫がなくなる。
蚕があがり十日遅れの盆供かな
川
桑の葉を餌とする蚕飼(この句は夏蚕)は人の都合に合わせることはできない。蚕が繭を作ってくれてはじめていっとき人様の時間ができる。
担ぎ手の足りず募集や秋祭
薗部庚申
作物は蚕と違って段取りに多少は折り合いをつけることができる。そして村の祭が執り行われる。多くの農村では神輿の担ぎ手が不足する。軽トラックの荷台に載せて巡行することもある。
梅漬けて草ばうばうの慰霊碑へ
田中たみ
村の神社や寺院あるいは墓地に大きな石碑を目にすることが多い。たいてい忠魂碑だ。裏側には戦没者の名がびっしり刻まれる。これらの人びとは大半が農業の担い手であった。草取や収穫の繁忙に携わることができなかった無念さが伝わる。残された家族の思いが伝わる。今年の八月は太平洋戦争をめぐった句を授かるかもしれない。