『日本の文脈』(内田樹・中沢新一著、2012年、角川書店)から派生した芋づる読書日記 2012年3月から4月(上)

1 ここ最近、出版されたら、たいていは読むことにしている内田樹中沢新一の二人の対談本『日本の文脈』が今回のきっかけの一冊である。プロローグは「これからは農業の時代だ!」とされている。期待をもったが、論議は直接この方向には進まなかった。論者二人の時代背景的な思想であった構造主義、とりわけ、レヴィ=ストロースの思想をからませながら論議が進む。とはいうものの、中沢はたびたび、農業に関わった発言をしている。中沢がかつて行った「贈与論」の展開の一つが、現在の彼の課題でもある重農主義を基礎においた「くくのち学舎」を主宰したということと大きくかかわっているのだろう。今回は、中沢の「贈与論」がまとめられた『純粋な自然の贈与』(1996年)に芋づるを伸ばした読書は行わなかった。「くくのち学舎」からどのような思想が紡ぎだされてくるのかは今後、注目したい。また、中沢の「贈与論」も検討したいところだ。
2 対談の中で中沢の次の発言が大きく印象に残った。「僕は高校生の時に、伊谷純一郎さんの写真を見てすごく感動しました。高崎山で伊谷さんが草むらに寝っ転がっていて、そのまわりをサルたちが取り囲んで見下ろしているんです。「俺もこういうことをやりたいな」って憧れていました。サルの視線よりも低いところで構えている。「日本人はサルとあんまり変わらない」と本気で思っている、そのことがすばらしいと思ったんです。日本人がつくりだした科学の中でも創造的なものは、だいたいそういう特徴を持っています。つまり目線が低いんです。僕が『チベットモーツァルト』以来つくりたいと思っているのは要するに、まっすぐ歩けなかったり、自然との距離が僅差であるような学問です。」(114-115p)伊谷純一郎が大きなきっかけになっており、前回の読書群との接点もある。
3 ということで、だいぶ昔に、入手してあった(少し読んで止めた)中沢新一著『チベットモーツァルト』(1983年、せりか書房)を引っ張り出した。30年前の私は、理科教師として近現代の「科学主義」に凝り固まっていて、「似非科学」・「非科学」・「オカルト」的なものは許し難く、ついていけなかったのだなと思った。変な書名だが、ジュリア・クリステヴァ(最近の私は彼女の作品にも関心を持っている)の論文中の文章によるとのことだ。1978年に始まる中沢のチベット密教の修行にかかわった論稿が中心の論文集である。
冒頭は「カスタネダ論」という副題のつく「孤独な鳥の条件」という論文だ。人類学の手法をもって対応するうちにメキシコのヤキ・インディアンの呪術師の弟子になっていった人類学者カルロス・カスタネダに心情的に自身を重ね、自身の研究手法を意義付けていく。
インターネット(アマゾン)で検索する中で、島田裕巳著『カルロス・カスタネダ』(2002年、ちくま学芸文庫)を知った。序章および第1章は、宗教学研究者・島田がカスタネダに関心をもつに至った経緯、不明なことが多いカスタネダの経歴、カスタネダが師事したという呪術師ドン・ファンが実在する人物なのかなどの考察が紹介される。第2章以下はカスタネダの著作(初期は修士論文・博士論文に相当)であるいわゆる『ドン・ファン・シリーズ』12冊のうちの最後の1冊(『時の輪』は『ドン・ファン・シリーズ』の中のドン・ファンの呪術の奥義・ことばを集成したとされる)を除いた部分のダイジェストである。島田の『カルロス・カスタネダ』はドン・ファンの論理展開を把握するためには非常に便利だ。だが、紹介は次第に単調になる。『ドン・ファン』シリーズそのものを読みたくなってきた。
4 『ドン・ファン・シリーズ』全12冊を入手したが、4月までに読了したのは出版順の次の6冊である。『呪術師と私 ドン・ファンの教え』(真崎義博訳、1974年、二見書房)、『呪術の体験 分離したリアリティ』(真崎訳、1973年、二見書房)、『呪師に成る イクストランへの旅』(真崎訳、1974年、二見書房)、『未知の次元』(名谷一郎訳・青木保監修、1979年、講談社)、『呪術の彼方へ 力の第二の環』(真崎訳、1978年、二見書房)、『呪術と夢見 イーグルの贈り物』(真崎訳、(1982年、二見書房)。もたもたした進行の物語は長編小説風の面白さがあるが、読みやすいとはいえない。
『呪術師と私 ドン・ファンの教え』は2部構成になっており、第2部の構造分析は学術書として成立させるために自らの体験を解題したものである。
『呪術の体験 分離したリアリティ』は、「明らかに、知覚できる解釈のこの親しみのない体系内で起こるできごとは、その体系に固有の意味の単位を用いてしか説明も理解もできない。したがって、本書はルポルタージュであり、ルポルタージュとして読んでいただきたい。私が記録した体形は私には理解できなかった。」(26p)と、カスタネダ自身が述べているように、愚直な学びのルポルタージュにはイライラさせられる。異文化と対決する際には避けられないことなのかもしれないが。
『呪師に成る イクストランへの旅』まで読みすすめてきたところで、師弟関係とはいったい何なのかという思いに至った。ドン・ファンという師、カルロス・カスタネダという弟子、この両者の関係の中でつくりだされる師弟関係は、悲しくなるほどに理想的な師弟関係なのかもしれない。私は弟子として、はたまた師としてこのような師弟関係をこれまでに結んできただろうか?
『未知の次元』の320-362pで、これまでのドン・ファンの指導をドン・ファン自身が種明かしする。イライラするような弟子カスタネダの鈍臭い愚鈍さがドン・ファンの語り(哲学)を引き出したのだ。「わたしはかねてから、ドン・ファンについての情報は私の人類学の研究に価値があると考えていたのだが、なぜか彼から明かされた瞬間にそんなことはどうでもよくなった。」(248p)カスタネダはここでやっと、研究者としての立場と呪術の修行者としての立場という二足のわらじから後者へと大きく吹っ切れたといえるのだろう。
『呪術と夢見 イーグルの贈り物』の序文で「自分のしていることを人類学上の研究なのだといいつづけていた。何年ものあいだ分類法・その起源と伝播の仮説を完成させようと努力しながら、その体系の文化基盤を明確にしようとしたのだった。」(8-9p)「一風変わった自伝となった。私が書いたのは、自分の文化のものとはちがう内的相互関係をもつ考え方や行為を受け入れたことによって起きたできごとなのだ。」(9p)とカスタネダは述べる。異端の道を歩んでしまった研究者の後知恵的弁明に聞こえなくもない。だが、「ドン・ファンは、しないことのかわりになるものを思いついた。私のように所有欲の強い者には、ノートを手放して解放されるいちばんいい方法があるというのだ。それは、ノートを公にして本を書くということだった。」(29p)出版活動を個人の所有欲と結びつけたところには、納得できるものがある。また、この巻ではドン・ファンの別の弟子との関係が大きな意味を持ち始めるところに特徴がある。弟子相互の中で、この場合はカルロス・カスタネダとラ・ゴルダとの間でだが、修行の中で経験したことがらについて相互に確認しあう作業によって、学習が深まっていく過程が印象的だった。
5 『チベットモーツァルト』の冒頭の論文「孤独な鳥の条件 カスタネダ論」の注に「『未知の次元』に展開された「ナワール」と「トナール」の存在学についてはすでに真木悠介氏の優れた文章『気流の鳴る音』(筑摩書房)があり、そこにつけ加えることは何もないとおもえた」(45p)とある。真木悠介著『気流の鳴る音 交響するコミューン』(1977年、筑摩書房)は出版された時点で読んだ本だ。だが、何の印象も残っていなかった。書庫で探したが見つからず、再度入手した。「人間と人間との関係のあり方を問うばかりでなく、自然論、宇宙論存在論をその中に包括した」「コンミューン」(14p)を構想する手がかりとして、「<近代>を特殊性として、<土着>を普遍性としてとらえなければならない。土着は近代を、下からも周辺からもつつみこむ。ただ近代が一様であるのに対して、土着がそれぞれの固有性をもって多様であるという意味においてのみ、それは抽象的な「普遍」と対立する。しかしこの土着の多様性でさえ、自然存在としての人類の意識の原構造のような地層で、たがいに通底し呼び交わしているはずである。」(24P)という前振りをふまえてドン・ファンの生き方が示される。そして、真木の「私がこれから数年の間やりたいと思っていることは、<コンミューン論を問題意識とし、文化人類学民俗学を素材とする、比較社会学>である。私は人間の生き方を発掘したい。とりわけその生き方を充たしている感覚を発掘してみたい。」(28p)という思いに重ねながらカスタネダの『ドン・ファン・シリーズ』の最初の4冊が検討される。本の3/4はドン・ファンの智恵の検討と言ってよいようだ。(続く)