『日本の文脈』(内田樹・中沢新一著、2012年、角川書店)から派生した芋づる読書日記 2012年3月から4月(下)

(続き)6 さて、評伝『カルロス・カスタネダ』では、鶴見俊輔につながる芋づるを見つけ出した。『展望』1970年11月号に書かれた「方法としてのアナキズム」である。この論文名が表題になっている『鶴見俊輔集9 方法としてのアナキズム』(1991年、筑摩書房)を入手した。短い論文であった。「アナキズムは、権力による強制なしに人間がたがいに助けあって生きてゆくことを理想とする思想だとして、まず大まかに定義する」(3p)と語り出され、「『ドン・ファンの教え』を読むと、レヴィ=ストロースが冷たい手で解剖して見せてくれたと同じものが、生きているままのあたたかさでわれわれに直接につたわってくるように感じる。私は、アナキズムの岩床には、こうしたものがあるように感じるし、若い時の一時の信念としてでなくアナキズムを支えるものは、世界にたいするこのような感覚だと思う。」(6P)「ドン・ファンの教えは、何千年も前から中米・南米・北米につたわっている文化の一部である。部族の多くが、国家主権をうしろだてにしたヨーロッパの近代文明にとけこんでしまった後も、工夫をこらしておたがいに連絡をとりながら別の文化の中に生きることをつづけてきた。」(11P)ドン・ファンの智恵をこのように位置付ける。島田が紹介していた鶴見俊輔著『グアダルーペの聖母 メキシコノート』(1976年、筑摩書房)も入手した。これは、エル・コレヒオ・デ・メヒコの客員教授として1972から73年のメキシコに滞在中にヤキ族の領土を訪問、フィールドワークした記録である。次のような一節があった。「現在、米国内に3万6千人、メキシコ国内に1万6千人のヤキ族が住んでいると言われる。二つの国にわかれてはいるがヤキ族としての共通の文化は保たれており、今日までのところ国境による分割が、ある程度以上の力をもたないという状況を示している。」(36P)「ヤキ族は今日、ひとつの国家の中に入りこんだ実質上のもうひとつの国家として存在しており、それは、国境をこえてもうひとつの国家内の自分たちの集団との交流の道を保っている。」(53p)「歴史教育や非暴力抵抗を支える根本の思想は、ヤキの自然観であり土地の哲学である。かれらは土地を、利潤や投資の対象として見ない。この林、この山に精神がやどることを信じ、鳥やけものに自分の心を託す道を修練している。この考え方は、すでに人類学者カスタネダが、ヤキの哲人ドン・ファンの教えを記録した三部作によってつたえたことだが、私たちの見たヤキの日常の生活哲学は、ドン・ファンのようなヤキ族の間でのやや専門的な思想家の哲学とほぼおなじわくぐみをもっている。」(55P)鶴見の旅は、ドン・ファンの足跡を追い求めたフィールドワークであったようだ。鶴見俊輔の著作を少し読みたくなってきた。その準備として、とりあえず昔の著作集(全五巻、筑摩書房)、書評集成(全3巻、みすず書房)、座談(全10巻、晶文社)、『期待と回想 語り下ろし伝』(2008年、朝日文庫)を入手しておいた。ここから太い芋づるがいづれ伸びることだろう。
7 カルロス・カスタネダの作品研究の翻訳本も視野に入り始めた。一つはドナルド・リー・ウィリアムズ著、鈴木研二・堀裕子訳『境界を超えて シャーマニズムの心理学』(1995年、創元社)。もう一つはリチャード・デ・ミル+マーティン・マクマホーン著、高岡よし子・藤沼瑞枝訳『呪術師カスタネダ 世界を止めた人類学者の虚実』(1983年、大陸書房)である。
前者の『境界を超えて シャーマニズムの心理学』から読み始めた。序論に著者らの問題意識が示されている。「アメリカ先住民の精神は、東洋の精神よりわれわれにとって身近である。なぜならそれは今住んでいる土地の精神であり、アメリカ人の無意識のルーツとよく調和しているからである。」(9p)「ユングアメリカ人の心理に関するエッセイの中で、インディアンはアメリカ人の精神において神聖で「極めて影響力の強い」要因であるが、多くは自我が直接気づくことのないままに作用していると書いている。さらに彼は、アメリカ人の無意識におけるインディアンは、英雄的行為と精神的洞察力の担い手またはシンボルであるようだと述べている。」(10P)ということで、著者はユング派の分析家としての視点からドン・ファンの思想、さらにはカルロス・カスタネダの言動を分析している。
8 おおもとにユングが出てきてしまった。これも今まで敬遠してきた思想家である。もちろん、ユングについて私は何も知識がない。そこで、とりあえずは、簡単な入門書を読むことにした。鈴木晶著『フロイトからユングへ 無意識の世界』(1999年、NHKライブラリー)、関連してさらにさかのぼって、同じ著者の入門書である鈴木晶著『「精神分析入門」を読む』(2000年、NHKライブラリー)はわかりやすかった。ユングの著作もいくつか入手した。読みやすそうなヤッフェ編・河合隼雄・斉藤昭・井出淑子訳『ユング自伝1』(1972年、みすず書房)から読み始めた。幼少期の屈折したキリスト教体験が延々とつづられている。169pの精神医学的活動の章のあたりから、夢あるいは無意識について語り始める。そしてフロイトとの出会いから決別までが語られる。『ユング自伝2』(1972年、みすず書房)はⅦ研究、Ⅷ塔、Ⅸ旅、Ⅹ幻像、ⅩⅠ死後の生命、ⅩⅡ晩年の思想、追想と語られる。ユング自身が体験したというオカルト的な事例が次々語られる。とてもついて行けない感じである。訳者は当然のことながら、あとがきで「ユングにとっては、内的な世界は外界と同じく「客観的な」ひとつの世界なのである。内界の奥深く旅して、ユングが遂に見出した「自己」について語ろうとするとき、それは神話として語る他には手段を見出すことができない。」(1の287-288p)と、弁護している。それとともに「本書の翻訳をみすず書房から依頼されたのは、実のところ数年も前のことである。その当時、わが国においてはユングの学説もあまり紹介されていなかったので、このような「特異な」自伝が先に翻訳紹介されることは、ユング心理学に対する誤解を生むのではないかとおそれたので、ひと先ずお断りしたのであった。」(1の288p)とも述べる。確かにそのような感じがする。芋づるから離れて読んだ小谷野敦『すばらしき愚民社会』(2007年、新潮文庫)は「精神分析ユング心理学も、科学とは言えない。えせ科学である。」(111p)と断定的にのべる。それは確かであろう。だが、世界的に影響を与えた思想群である。もう少し付き合ってフロイトともども読んでみようと思う。小谷野が紹介していたH・J・アイゼンク著『精神分析に別れを告げよう フロイト帝国の衰退と没落』を入手した。これも併せて読むつもりだ。
9 日本へユングを「紹介」、「普及」してきた、岸田秀河合隼雄も敬遠してきた著者たちである。かれらの著作へも目が行くようになった。河合隼雄は、今回の芋づる式読書のきっかけになった中沢新一との対談の共著がある。河合隼雄中沢新一『仏教が好き!』(2008年、朝日文庫)、河合隼雄中沢新一ブッダの夢』(2001年朝日文庫)である。両方とも、テンポのある対談で面白い。『仏教が好き!』22pで中沢はレヴィ=ストロースが『悲しき熱帯』の最終章で自分は仏教徒だと告白していると紹介している。川田順造訳『悲しき熱帯Ⅱ』(2001年、中公クラシック)の最終章を探してみた。「私は実際、私が耳を傾けた師たちから、私が読んだ哲人たちから、私が訪れた社会から、静養が自慢の種にしているあの科学からさえ、継ぎ合わせてみれば木の下での聖賢釈尊の瞑想に他ならない教えの断片以外の何を学んだというのか?」(421p)のところだろうか。1年前に通読したときには見落としていたところだ。仏教の経典の類に読書が芋づる式に伸びる予感もある。また、河合隼雄の書いたユングと仏教がらみの著作群も多少入手した。これはまだ未読である。なお、河合隼雄著『ナバホへの旅 たましいの風景』(2002年、朝日新聞社)はナバホのメディスンマンを訪問した軽いルポルタージュで、ユング派の分析家としての面目躍如な本であった。
10 このほか、芋づるとは多少離れた本も読んだ。内田樹著『先生はえらい』(2005年、ちくまプリーマー新書)。中学・高校生が対象の本だが、師弟論としてかなり水準の高い読み物だと思った。島田裕巳著『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(2007年、亜紀書房)。『虹の階梯』をはじめとする中沢の初期の著作群がオウム真理教の理論的支柱になっていること、中沢が浅原彰晃を高く評価していることなどに何ら反省的な発言をしていないことなどを宗教学者として批判する。論文集であるが、論旨はだいぶ重複している感じがした。だが、論評は難しい。今回は、だいぶ大量の本を読んでしまった。農閑期ということもあった。ということで、もう1冊。桜井順著『オノマトピア 擬音語大国にっぽん考』(2010年、岩波現代文庫)。これも大変面白く、刺激的な本だ。その中の一節に「「教養」とは学歴のことではなく、「一人で時間をつぶせる技術」のことでもある。」(85p)とあった。年金生活者の私は、体力と知力は年々減退するが、時間があり余り、暇なのだ。そして「一人で時間をつぶせる技術」をもった「教養」人なのだろう。(終わり)