読書日誌・折口信夫(釋超空)にはまった

 民俗学南方熊楠柳田國男宮本常一…これらは、私が関心をもってきた分野、人物の一群である。学問の道筋から言って、当然のことながら、ここに折口信夫が加わることになった。
 折口は歌人・釋超空であるということで私は避けてきた。歌人への関心は斎藤茂吉にとどめておいたほうが良いと思っていたからだ。
 たまたま、中沢新一の『古代から来た未来人 折口信夫』(ちくまプリマー新書・2008年)という若者向けの著書を読んだ。その一節「折口信夫の思考と文章をとおして、日本語というローカルなことばの全能力は開かれ、思考のことばが存在の根になまなましいほどの感触をもってふれる奇跡が実現されている。」(7-8p)に大きく触発された。さらに、中沢は「折口信夫の著作を前にしたときほど、わたしは自分が日本語の使い手であることを、しみじみと幸福に感じたことはない。」(29p)ともいう。私が愛読する著者の一人・中沢が言うのだから、取り組む以外にないと感じた。また、私は日本語で俳句をつくっている。その肥やしにもなるだろう。
 国文学まで範囲を広げるつもりはないので、中公文庫の全集から民俗学関係の古書7冊をまず集めた(けっこう高価だ)。あとは文庫本で入手できる歌集などだ。だが、どこから手を付ければよいのやらわからない。そこで、周辺から攻めることにした。
 弟子たちによる折口の人となりを語った文庫本がいくつかある。とっつきは池田弥三郎『まれびとの座 折口信夫と私』(中公文庫)。これには、池田が復員した昭和二十一年一月から折口が亡くなる二十八年九月までの「私製・折口信夫年譜」がある。これが非常に面白い。折口の断片的な言辞がリアルタイムで書かれる。断片であるから理解を深めるには著作にあたらなければなるまい。また、子弟の濃厚な関係が綴られる。この関係はすごい。なお、「学者としての折口先生は、全く歌人としての先生自身に、大げさに言えば、身を亡ぼされた、と言ってよい。」(41p)とある。釋超空の作品である歌も外すわけにはいかないと私は思い始めた。
 ということで、弟子ではないが、現代の詩人・小説家である富岡多恵子の『釋超空ノート』(岩波現代文庫)を読み始めた。富岡は岩波文庫に超空の歌集の編著がある。いずれはこちらも読まねばなるまい。
 これからの読書だが、もう少し弟子筋の文庫本を読んでおきたい。入手したのは、池田弥三郎『弧影の人 折口信夫と釋超空のあいだ』(旺文社文庫)、戸板康二折口信夫坐談』(中公文庫)、加藤守雄『わが師 折口信夫』(朝日文庫)、岡野弘彦折口信夫の晩年』(中公文庫)。弟子筋では女性の穂積生萩『私の折口信夫』(講談社・昭和53)は、読み始めたばかりだが、「「女は汚い」と女にむかって言わずに、超空は男の恋人に操立して言う。(67p)」といったように切り口が非常に面白い。歌人生萩の古書を今注文中である。
 このように右往左往しながら、折口信夫の著作そのものを読み進めるつもりである。日々、読みたい本が増え続けるこの頃である。