『遠野物語』を読みはじめた

最近、読書の方向が、南米熱帯の自然誌から民族学、そして枝道の日本民俗学に入りこんだ。そんななか、赤坂憲雄著『柳田国男の読み方 もうひとつの民俗学は可能か』(1994年、ちくま新書)を読み、『遠野物語』が気になった。文庫本を再入手して読み始めた。大半は二行から十行ほどの「物語」百十九篇から構成されている。面白くもなんともない。『遠野物語』は、あまりにも有名な作品で読んだ気になっていた。しかし、これは読んでいないと確信した。
これまでの読書の経験で、「古典」と呼ばれる作品は、周辺の知識をかためたり、解説書を傍らに置きながらでないと読み取れないことが解っている。そこで、赤坂憲雄の「柳田国男の発生三部作」の『山の精神史』、『漂泊の精神史』(ともに小学館ライブラリー)を読み始めた。なかなか刺激的な本だ。そして、テキストの読み込みの大切さを学んだ。赤坂は次のように述べる。「わたしたちはやはり、柳田自身のテクストに沿ってそれを検証してゆかねばなるまい」(『山の精神史』138ページ)、「時代の制約や官僚としての立場ゆえの大きな限界がひそんでいることは確実である。が、可能性として柳田の思想を掘ることを望むわたしは…ラディカルな解読の孕む可能性にこそ賭けたい気がする。可能性において柳田を問うこと」(『漂泊の精神史』119ページ)。
当然のことながら、赤坂は論述の中で、柳田の作品を引用する。『遠野物語』も引用される。この引用と解読を手掛かりに、『遠野物語』を読むのである。こうすると、「物語」の意味するところが少しずつにじみ出てくる。文庫本には佐々木喜善採録した『遠野物語拾遺』が併載されている。粗削りだが、こちらの方がリアリティが強い。『遠野物語』は、赤坂の言うように文学作品・「物語」としての完成度が高いためなのだろう。ついでに、柳田が参照したというハインリッヒ・ハイネの『流刑の神々・精霊物語』(岩波文庫)も読んだ。
最近、赤坂の『遠野/物語考』(ちくま学芸文庫)を入手した。まだ未読である。文庫本はあと少しで読み終わる。次は、『遠野/物語考』を頼りに、もう一度初めから『遠野物語』を読もうと思っている。
 蛇足だが、古書店で入手した『遠野物語』(新潮文庫)は、昭和48年(1973年)発行、昭和63年(1988年)34刷である。多分ものすごい発行部数だろう。そして、どれだけの人が読み終えたのだろうか?