『村で暮らす』(山岡寛人著)

 3年前に執筆したが、様々な事情で出版されなかった小学校高学年から中学生向けの本の原稿です。現在の私の暮らしのアウトラインがわかりやすく述べられていますので、全文を掲載します。執筆後に麦作、稲作も始めていますので、多少の手直しをして出版してくれるところありませんか。写真や図はたくさんありますが、ここでは省略します。

『村で暮らす』(仮題)山岡寛人著

第一章 村での暮らしが始まるまで

環境教育が私の生き方を変えた
 私は、定年で退職するまでの二二年間、東京都中野区にある中等教育学校(中学・高校の六年間一貫教育の学校)で中学生や高校生に理科・生物を教えていました。学校のまわりは住宅街と小さなお店が並ぶ商店街です。もよりの地下鉄や私鉄の駅からは歩いて一五分くらいです。JR新宿駅から約二キロ、バスで一〇分くらいです。校庭や校舎の窓からは、都庁などの超高層ビルがまるで山のように見えます。
 「自然なんかないよ」といわれそうな大都市です。それでも、ちょっと注意すると、野生の生き物たちが息づいていることが分かります。こうした生き物たちを授業にもちこみました。それにしても貧弱な生き物たちの世界です。大都市に豊かな生きものたちの世界をとり戻せないものだろうか、という気持ちが強くなってきました。そして授業の組み立て方も少しずつ変わりました。
 学校のまわりには、どのような生き物が暮らしているのだろうか。生き物たちは、どのような環境で暮らしているのだろうか。昔はどのような生き物たちが、どのような環境に暮らしていたのだろうか。環境はどのように変えられてきたのか。どのような環境が生き物たちにとって、さらには私たちにとって望ましいのだろうか。環境をよりよいものにするにはどのような方法があるのか。疑問が次つぎとあがってきました。分からないことばかりです。生徒とともに調べ、考えることにしました。また、私は生徒たちを指導する立場ですから、さまざまな本や資料を集め、勉強しました。
 私がとりくんだ授業は理科(生物)教育というよりは、環境教育だったといってよいかもしれません。そして、この教育は私自身の生き方を変えることにもなりました。
都市での生活を見直すこと。さらには都市と農村の関係のあり方を変える試みを自ら始めなければならない。これが私なりにたどり着いた結論でした。

都市の生活で失ったもの・こと
 私はこれまでの人生の大半を都市で過ごしてきました。都市はたいへん便利なところです。食べものをはじめ、着るもの、履きもの、アクセサリー、本やCDなど気に入ったものが簡単に手に入ります。ホール、美術館、博物館、映画館、図書館など文化施設を手軽に利用できます。電車やバスは朝早くから夜遅くまでたくさん走っています。大きな病院があります。また、おとなにとって都市は仕事がたくさんあるところです。
 しかし、都市での生活は便利さとひきかえにさまざまな問題を抱えています。
一人で食べきることのできる食材は、スーパーではほとんど手に入れることができません。いくつもの魚や野菜がパック詰めになっています。冷蔵庫で保存していても、いくつかは腐って食べられなくなります。生ごみの発生です。プラスチック製のパックはなかみを使い切るとごみです。
 食べものに限らずほかのものでも同じです。大量に買い込み、大量に捨てる生活からなかなかぬけられません。商店は大量に売ろうと必死です。毎朝配達される新聞の折り込み広告は新聞そのものより目方が多いくらいです。これもごみになってしまいます。流行おくれになったものや、しみがついたり、少し傷がついたものもごみとして捨てられてしまいます。そして、都市はあふれかえるごみの処理に困っています。
 エネルギー資源のむだづかいも、やめることができません。人がいなくてもエスカレーターが動いています。建物の中はたくさんの照明で明るく、エアコンもきいています。スピーカーからは音楽とともにコマーシャルが流れています。これらはすべて電気を使用します。電気のおおもとは、たいていエネルギー資源の石油です。
 都市はたくさんの人たちが動き回っています。たくさんの自動車がはき出す排ガスはたいへんな量です。これに工場の煙が加わることもあります。
 たくさんの人たちが生活するための家、アパート、マンションなどが建ち並んでいます。商店や飲食店もたくさんあります。都市の過密化です。このため、快適な散歩ができるようなところもほとんどありません。アスファルトやコンクリートにおおわれた地面は足やひざ、腰を痛めます。アスファルトやコンクリートでは草や木は生えることができません。木や草を食べる虫たち、虫たちを食べる小鳥も暮らしていくことはできません。子どもたちがおもうぞんぶん遊べるような原っぱ・空き地、水辺もありません。あげていくときりがありません。

都市と農村との関係を考える
 都市の近くにある農村は都市に新鮮な野菜を届ける生産地でした。しかし、増え続ける都市の人々のベッドタウンとして宅地開発がすすめられ、都市に変わってしまいました。わずかに残った農地では肥料のにおいなどがトラブルの原因になっています。
 都市から遠く離れた農村ではどうだったのでしょうか。虫食いなどのない、規格にあった農産物が都市の人たちから求められるようになってきました。このため、高価な肥料や農薬、農機具が必要になります。また、安い輸入農産物が次つぎと日本に入ってきました。小規模の生産では農業経営が成り立ちません。そして、多くの人が仕事を求めて都市に出て行きました。この結果が農村の過疎化と都市の過密化です。過疎になった農村では人手が足りなく、里山が荒れてきました。耕作されない畑や棚田が増えてきました。荒れた里山はがけ崩れや土石流などの災害の原因にもなっています。

新しいふるさとを探す
 都市での生活を見直し、都市と農村の関係のあり方を変える試みはいろいろあるでしょう。私は、自分の食べもの・使用するエネルギー資源などをできるだけ自分で作ることをめざす生活が必要だと考えました。食べもの・エネルギーともに自給する目標を五〇%にしました。一〇〇%はとても無理でしょう。また、私は自然、とりわけ生き物たちの世界の見方・楽しみ方を案内するフィールドワークが得意です。定年後の社会的な活動としてフィールドワークを指導する私塾を開きたいと思いました。このようなことができるフィールドは、都市では無理でしょう。農村を定年後の新しいふるさとにしたいと思いました。新しいふるさとの条件として次のことを考えました。
 農家の古い空き家で敷地の中に一〇〇坪(約三三〇㎡)ぐらいの畑が取れる。また、敷地に隣接して果樹を植えたり、炭焼きのできる山林がほしい。
 敷地の中に小型の水力発電機を置けるような小さな川がほしい。
 このような話を聞きつけた知人が岩手県の農家の空き家を案内してくれることになりました。私は、いちばんきびしい季節である冬に訪れることにしました。条件にぴったりあったものがいくつもありました。しかし、すべてが屋根まで雪に埋もれていました。四,五か月は雪の中という話も聞きました。私はこれから先、年々体力が低下していきます。自分で行う雪おろしはやがて不可能になるでしょう。また、一年間を通して野菜をまかなうことも難しそうです。
 条件に、雪があまり多くないところをつけ加えることにしました。そして、いろいろな知人に声をかけました。不動産屋さんにも相談しました。田舎暮らしの雑誌の情報も集めました。福島、栃木、埼玉、山梨、長野、茨城、千葉県とあちこちを探し回りました。しかし、気に入ったものに出会うことができませんでした。だんだんと、定年退職の日が近づいてきました。
 そのようなある日、千葉県・館山市に住んでいる友人から山林を手放したいという人がいるという知らせが入りました。友人の家にはたびたび泊りがけで遊びに出かけています。散歩で村のようす、谷津田や山林のようすも少しは分かっています。条件には合いませんが、ひとまず山林を手に入れて、フィールドを確保するのもひとつの考えかただと思いました。
 手に入れた山林は放棄された果樹園でした。急な斜面に伸び放題のナツミカンやレモンなどの果樹が植わっています。多くの果樹はアケビやフジなどのつる植物におおわれています。メダケもおいしげっています。手入れのしがいがありそうな山林です。もちろん電気や水道もなく住むことはできません。
 しばらくたったある日、山林の案内に同行した隣の山林の持ち主から連絡が入りました。山林の世話をするには近くに家があったほうが都合がよいだろうというのです。あいている土地を手放してもよいという話です。

第二章 村での生活が始まった

農家の古家は手に入らなかったが
 私の考えていた条件は次つぎとくずれました。そして、妥協を重ねることになってしまいました。手に入れた土地は土手のあるやや高台の更地でした。もともとは畑ですが、しばらく前まで建設業者の資材置き場になっていたそうです。山林までは歩いて一〇分くらいかかります。面積は約一三〇坪(約四三〇㎡)です。土手をそのまま残し、家を建てると、畑に使えるのはせいぜいのところ五〇坪(約一六五㎡)です。川も流れていません。しかし周りを農地に囲まれた見晴らしのよい気持ちのよい土地です。
 こうして、農村のいっかくに新しい家を建てることになりました。都会風の家は私のめざしていることにはむきません。昔の農家のつくりに学び、玄関を広めの土間にすることにしました。木造の平屋で、部屋の間仕切りも少なくしました。床は杉の板張りにしました。書斎には大きめの薪ストーブを入れました。
もうひとつの工夫は、雨水をためる設備です。樋のひとつを下水に直接つなげないで間に廃物利用のタンクを入れました。これで雨水を二㎥は溜めることができます。蛇口をつければ畑にまく水のたしになるでしょう。
そして、退職した年の六月に転居しました。

生ごみを埋める
 近所にコンビニや飲食店はありません。引っ越したその日から食事づくりが始まりました。食材は自転車で一〇分ほどのところにあるスーパーに買出しに出ました。買物かごがついていない自転車なので背中のザックに入る分だけ買いました。
 野菜の皮をむいたり、魚をさばくと生ごみが出ます。食事のあとに魚の骨や貝殻などの残飯が出ます。これも生ごみです。生ごみは腐ればいい肥料になります。生ごみはとりあえず庭に埋めることにしました。回りは農地ですから生ごみが腐っていやなにおいを出してもだいじょうぶです。
てもとには園芸用の小さなスコップしかありませんでした。小さな穴を次つぎ掘って、いたるところに埋め始めました。いずれ、堆肥置き場を作るつもりです。

庭の手入れを始める
 新しい家は、地面に「なじんでいない」という感じがしました。整地されたばかりの地面は、削られて平らにされたり、新しい土を入れて平らにされてできました。地面に生き物の世界がないからそのように感じたのでしょう。草花や庭木を植えたくなりました。時期が悪いのか、草花は適当なものが見つかりませんでした。庭木は花や実が楽しめそうな果樹を選びました。イチジク、アンズ、スモモ、プルーン、サクランボ、ウメ、レモンなどです。苗木を植えるために最初の農機具としてシャベルを買いました。
 植えたばかりの果樹のまわりの地面が空いています。ここには手に入ったサツマイモ、トマト、ナス、キュウリの苗を植えつけました。

土手の草刈
 梅雨が明けて日ざしが強くなってきました。気温もぐんぐん上がってきました。今まで目立たなかった土手の草がいっきに伸びてきました。土手は隣の農地に接しています。放っておくわけにはいきません。草むらが害虫の発生源になることがあるからです。
 さっそくホームセンターへ鎌(かま)を買いに行くことにしました。土手には草に混ざってクコやノイバラ、クワなど小さな木も生えています。細い木も切れるような鎌を買うことにしました。大きくて重い鎌です。庭の草を刈る小さな鎌も買いました。これが二番めに買った農機具です。
 土手は高さが四m近くもあります。かなり急な斜面になっています。腰をかがめながら草を刈っていきます。一時間も作業を続けると、へとへとになります。すべて刈り終えるのに一〇日近くもかかってしまいました。そして、そのころには最初に刈ったところの草がだいぶ伸びてきました。農作業は雑草との「たたかい」ということをよく耳にしましたが、ほんとうにそのとおりだと思いました。

初めての収穫
 七月になると、トマト、ナス、キュウリができ始めました。初めての野菜の収穫です。いずれも小さく、形もゆがんだものでした。耕しもせず、肥料もすきこまないで、苗を庭に植えただけなのですから当然です。それでもワイルドでおいしい野菜でした。これまでは、庭のはしにかってに生えていたフキ以外はすべてスーパーなどで買った食べものでした。まだ食べものの自給率は一%にも満たないものでしょうが、一歩前進です。
 玄関前に植えたサツマイモはすくすく育っています。果樹の根もとはサツマイモのハート型の葉でびっしりおおわれています。まるで、観葉植物のようです。畑の予定地はまだ耕していませんが、シャベルで簡単に畝をたて、ここにもサツマイモを植えつけておきました。ここのサツマイモもよく茂っています。雑草はほとんど目にしません。雑草は、サツマイモとの光をめぐる競争に負けてしまったようです。一〇月には食べきれないほどのサツマイモを収穫することができました。

第三章 私の暮らしている村

房総半島の先端
 第一章でお話ししたように私の新しいふるさとは、千葉県館山(たてやま)市にあります。社会科の地図帳を出してください。千葉県が見つかりましたか。
千葉県は東京湾の東側を形づくっている房総半島にだいたいおさまります。半島は太平洋につき出ています。館山市はこの房総半島の南の端にあります。東京湾側で湾の外にあるということになります。半島のつけ根は東京都に接する市川市茨城県に接する銚子市を結ぶ線上にあります。つけ根のあたりには標高が三〇m前後の下総台地が広がっています。台地は千葉県の面積の約四四%を占めます。ここには大きな都市がいくつもあります。半島を南へ行くにつれ標高が次第に高くなります。そして、標高三〇〇mほどの房総丘陵が広がります。丘陵は千葉県の約三一%です。残りの約二五%は海岸に近い低地です。
房総半島にはいくつもの入江があります。入江には川が流れこみ、川が運んだ土砂で低地がつくられます。館山市はそうした入江のひとつである館山湾(鏡ヶ浦(かがみがうら))にやや大きな平久里(へぐり)川(湊川)・小さな汐入(しおいり)川が流れこんでできた館山平野を中心に広がっています。北・南・東の三方が丘陵に囲まれ、西は海に面した平野という地形です。私が暮らしているのは市街地から少し離れた南側の丘陵に接した地域です。沼という地区ですが、農村部にありますので「村」と呼ぶことにします。

沼という地名
 私の家の地番を細かく見ると、館山市《大字(おおあざ)》沼(ぬま)《小字(こあざ)》谷(やつ)となっています。なお、住居の表示では大字ということば、小字は省略されています。山林は《大字》沼《小字》柳作(やなぎさく)です。字(あざ)は町や村の中の区画のことです。大字はむかしの村の名前であることが多いです。小字はもっとも小さな区画です。
 地名のつけられ方はいろいろです。沼という地名は湿地のある場所という地形上の特徴からつけられます。『角川日本地名大辞典⑫千葉県』をひいてみました。「館山湾南岸に位置する。館山城の壕の役割を果たしたといわれる沼沢があり、地名はこの沼沢による」と書いてありました。
 小字名は残念ながら辞典にはのっていません。考えてみることにしましょう。谷(やつ)も地形上の特徴からきていると思います。この地域では、小さな谷のような形をした谷津(やつ)が丘陵にいくつかくいこんでいます。柳作(やなぎさく)はヤナギが茂っているところという景観上の特徴からきたのでしょう。私の山林は谷津のつきあたりにあります。このようなところにはヤナギやハンノキなどが大きな林をつくることがあります。今では、周辺は果樹園やスギの林、マテバシイの林ですが、むかしヤナギの林があったのかもしれません。谷津の奥の休耕田には小さなヤナギが生えています。

谷津地形の中にある村
 先ほど館山市の大まかな地形をお話しました。しかし、細かな地形を見ると一様ではありません。私の家から周囲を見わたしましょう。北には小学校や家並みの屋根のむこうに港のクレーンの先が見えます。海は屋根に隠れて見えませんが北にあります。南はむかしからの農家が集落をつくり、低い丘陵が迫っています。東は田んぼのむこうに丘陵が迫っています。この丘陵の北のはしには、小さな城がのっかっています。城の下は小学校や住宅です。西はわずかな畑と家で、すぐむこうは丘陵です。まとめると、南・東・西が丘陵に囲まれ、北が海ということになります。JR内房(うちぼう)線(せん)館山駅に降り立ち、私の家にたどり着くと、海がどちらにあるのか分からなくなってしまう人がいます。
 地形図を検討しましょう。私の村は、国土地理院発行の二万五千分の一地形図『館山』にあります。館山駅の近くでは館山湾の海岸線が線路とほぼ平行で、南北方向に走っていました。駅を過ぎると海岸線は東西方向にゆるく曲がっていきます。沼という大字の名前がゴシックで印刷されています。海岸近くに西ノ浜、柏崎という小字の名前が印刷されています。海岸から離れた丘陵近くは岡沼にまとめられています。私の暮らしている村・沼は、海岸から丘陵に向かって南北方向にはいりこむ樹の幹と枝のような地形のなかに広がっていることが分かります。
 見晴らしのよいところから村全体を眺めることができれば、もっとよく分かるでしょう。そうです。お城がありました。城は市の博物館として新しく建てられたものです。いちばん上は展望台になっています。ここから村を眺めてみることにしました。私の家からは歩いて一〇分ほどです。
 よく晴れた秋の日です。遠くに富士山が見えます。海の向こうには伊豆大島もうっすらと見えました。城の展望台の四方には、それぞれ景観のシルエットを示した案内板があります。丘陵の高いところには地元の人びとが呼びならわしてきた山の名前も書いてあります。字(あざ)の名前もいくつか書かれています。
 展望台の南側から地形のようすを眺めましょう。海岸から樹の根株、幹と枝の広がりが丘陵にくいこむようなかたちに見えます。これが谷津地形の大きな特徴です。樹の根株や幹の下にあたるところには小学校をはじめ色とりどりの屋根が並んでいます。幹のとちゅうから枝にかけては黄色です。これは田んぼにみのり始めた稲の色です。丘陵は濃い緑色におおわれています。シイやカシ、タブなど常緑広葉樹です。谷津地形の右端の枝の先が私の暮らしている谷(やつ)地区です。私の小さな家も見えます。

地形と土地の利用
 展望台からの眺めで、村の土地の利用のしかたがうかがうことができます。
海岸は漁船や土砂などを運びこむ貨物船の港として利用されています。海の埋めたて地には港の管理事務所や漁協の事務所などがあります。海岸近くの低地はむかしは漁村でした。いまでも漁師さんの家が釣り船屋さんや民宿として残っています。新しい家もたくさんつくられています。
 谷津にひろがる低地は水田として利用されてきました。海岸に近いほうからしだいに埋めたてられ、新しい家が建ち始めています。谷津の奥には今でも水田が広がっています。谷津のつきあたりには谷津をせき止めてつくったため池があります。ため池の水は水路に落とされ、水田のはしを流れています。水路の水は水田での米つくりに使われています。また、最近では水田を埋めたてて畑にしたり、ハウス栽培のビワ果樹園にしています。
むかしからの農家は低地にそって一段高くなったところに集落を作っています。これは細かい地形の分け方でいうと段丘です。段丘は、大きな地震のときに地層が押し上げられてできます。大正一二(一九二三)年の関東大地震の時には、館山では地面が約一・五mも隆起しています。
 丘陵のほとんどはマテバシイです。マテバシイはかつて、薪や木炭を生産するためさかんに植林されました。薪や木炭の需要がなくなってからは、多くが果樹園に変えられました。夏ミカン、ビワが栽培されています。また、生花用としてソテツも栽培されます。丘陵で集落からだいぶ離れたところには、スギの植林も見られます。

第四章 大地を耕す

畑の下は岩盤
 サツマイモの収穫を終えてからひと月ほどがたちました。これから畑にしようと考えているところの雑草もだいぶ枯れてきました。いよいよ畑づくりです。三番目の農機具として鍬(くわ)を二本買いました。ふつうの唐(とう)鍬(ぐわ)と、先が三つに分かれている備中鍬(びっちゅうぐわ)です。いずれも地面に刃先を打ちこみやすい角度になっている鍬です。
 土が固くなっているので、備中鍬を使うことにしました。先が三つに分かれているので土によくささります。土が大きな塊になって掘りあがります。かなりくたびれる作業です。カチンと鋭い音がしました。鍬の刃先が石にぶつかったようです。握りこぶしくらいの小石が次つぎ出てきます。指先ぐらいの小石は数えきれません。こんどはゴツンと鈍い音がして、鍬の柄がふるえました。大きな石にぶつかったようです。まん中の刃が少し曲がってしまいました。掘りだした石は枕ぐらいの大きさがありました。大きめの石は農道側に運んで積み重ねることにしました。石がどんどん山になって行きます。それにしてもひどい土です。
 掘りあげた石を観察することにしました。鍬の刃で削られたところが白いすじになっています。柔らかな石です。流しで洗ってみました。水をふくんで茶色がかった灰色をしています。爪の先で表面がわずかに削れます。泥(どろ)が固まってできた泥岩(でいがん)という岩石です。よく見ると、小さな軽石の粒も混ざっています。火山灰が海の底に堆積してできた凝灰岩(ぎょうかいがん)質の泥岩のようです。
畑の土の下がどうなっているのか気になりました。さっそくシャベルで穴を掘ってみました。土は厚さが二〇㎝ほどしかありません。土をどけると、シャベルの先にぼろぼろになった白っぽい泥がついてきました。畑の土のすぐ下は泥岩の岩盤でした。
 この土地は地形的にちょっと変だなと思っていました。第二章でお話したように、私の家は土手の上にあります。低地からだと約四m、隣の農家がある段丘からは約三mの高さにあります。西隣の畑は市道に面したところがほぼ垂直の崖になっています。これは明らかに工事で切り崩したものです。そういえばこの崖には泥岩が顔を出しているところがあります。また、市道を西に進むと両側が高い崖になっている切通しもあります。細かな地形が分かる市役所が発行している二千五百分の一の地形図をひっぱり出してみました。昭和五五(一九八〇)年に測量された地形図ですが、現在の地形のままでした。しかし、この地形図をつくづく眺めていると、私の畑は西側にある丘陵の裾野を削って平らにしてつくったのではないかという疑問が出てきました。
 この疑問は、だいぶたってから解決しました。山を削り、下の田んぼを埋めて畑にしたという話を北隣の畑の持ち主のおじいさんから聞きだしたからです。これで、私の畑の土の下が岩盤であることが納得できました。

畑を耕す
 備中鍬で耕した土の塊は唐鍬で細かくしました。ホームセンターで買ってきた鶏糞や石灰をすきこみました。鶏糞はニワトリの糞をおがくずに混ぜて発酵させた有機肥料です。石灰は土をアルカリ性にします。サラサラした土にはどうしてもなりません。ボロボロした粒ばかりです。雨が降って晴れると、土の表面はコチコチに固まってしまいます。ひどい土です。それでも畝を立て、大根の種をまきました。やっと育った大根は親指ぐらいの太さでした。それでも一人分の大根おろしには最適です。味噌汁でも一本の大根を使い切ることができます。農薬をまったく使っていない大根です。青あおとした葉も安心して食べることができます。菜っ葉のかわりに大根の葉も一生けんめい食べました。
 畑の脇に積んでおいた石の山が少し小さくなっています。砕けて細かくなった石がだいぶあります。石の風化が進んでいるのです。日ざしを受けた石は膨張します。そして冷えこんだ夜には収縮します。このくり返しで石にひびがはいります。ひびの入ったところに雨水がしみこむと砕けやすくなります。ほかの石の重みも砕けやすくします。石の山をなにげに踏んだ私の体重も風化を助けているでしょう。風化によって石が土に変わりつつある現場を見て、元気が出てきました。せっせと耕して石、さらには岩盤の岩の風化を進めてあげればよいのです。

畑の土をつくる
 泥岩が風化してできた土は泥です。泥は地学ではシルトと呼びます。シルトは砂より粒が細かです。シルトがもっと細かくなると粘土です。ですから、シルトには粘土ににた性質があります。雨水をふくむとネチャネチャになります。そして乾くとコチコチになります。これを少しずつ解決しないと畑のよい土にはなりません。
 畑のよい土は、顕微鏡で観察すると、いくつかの土の粒がまとまって小さな団子(だんご)状のつくりをしています。このようなつくりを団粒構造(だんりゅうこうぞう)と呼びます。団粒構造の団子どうしのすき間には空気や肥料の溶けた水が入りこみます。植物の根毛というルーペで観察しないと見えないような細かな根はこのすき間にもぐりこみます。そして呼吸をし、水を吸収して育ちます。団粒構造がしっかりできた土では作物がよく育ちます。
 土に団粒構造ができるには土の粒どうしがお互いにくっつかなければなりません。くっつくためには「のり」が必要です。この「のり」はカビや細菌(バクテリア)が作り出します。団粒構造をつくるためには、土の中のカビや細菌を増やしてあげればよいということになります。これが有機肥料のもうひとつの役割です。有機肥料は肥料分を土に加えるだけではないのです。

堆肥づくり
 ホームセンターに出かけてお金を出せば、鶏糞、牛糞などの有機肥料が手に入ります。私はニワトリやウシを飼っていませんので、このような有機肥料を作ることはできません。食べものやエネルギー資源の自給率を上げるように、肥料の自給率も上げたいものです。むかしの農家でよく見かけた堆肥を作ることにしました。堆肥は落ち葉や草を腐らせて作る有機肥料です。
 私がいちばん手に入れやすい堆肥の原料は草です。草刈をすればよいのです。ただ、刈ったばかりの雑草には弱点があります。それは、七〇%から九〇%は水分だということです。草を山のように積み上げても、しばらくたつとほんのわずかになってしまいます。それでもないよりはましです。
 角材と板で堆肥置き場を作りました。ここに草刈をした雑草をどんどん積み上げました。野菜の食べられない部分も雑草と同じように積み上げました。米のとぎ汁や台所からでるごみも入れました。古畳(ふるだたみ)をもらってきて、しんになっている藁(わら)をほぐして混ぜました。なお、古畳には殺虫剤が混ざっている恐れがあるので注意が必要です。ほんとうは、秋の間に大量の落ち葉を集めることができればよいのですが、丘陵には堆肥づくりに最適なクヌギやコナラなど落葉樹はほとんどありません。マテバシイなどの常緑樹も初夏に葉を少し落とします。やや腐りにくいのですが、これも来年は集めて堆肥にしましょう。
 積み重ねた雑草、落ち葉などが腐って堆肥になるにはカビや細菌が増えて活発に活動してもらわなければなりません。カビや細菌が増えやすい条件を整えなければよい堆肥はできません。まずは水分です。落ち葉は乾いていますが、雑草は水分をたっぷり持っています。雑草が多いので、水をかけなくてもだいじょうぶでしょう。
 カビや細菌はまわりがアルカリ性のほうがよく活動します。消石灰を混ぜましょう。消石灰はグラウンドのライン引きに使うのでみなさんは知っていることでしょう。また、薪ストーブから出る木灰もアルカリ性なので利用できます。木灰にはカリウムなどの肥料分も含まれています。
 カビや細菌も生き物です。体をつくるにはたんぱく質が必要です。そしてこのたんぱく質をつくるには窒素分が欠かせません。落ち葉は窒素分が少なめです。落葉だけで堆肥を作るときには窒素分を加えます。むかしの農家ではトイレから出るし尿(下肥(しもごえ)といいました)をかけました。台所ごみには魚の頭などがあります。また、雑草にもわずかですが、たんぱく質があります。とくに窒素分を加えなくてもだいじょうぶでしょう。
 あとは、ときどき堆肥をひっくり返して空気を送りこんであげます。カビや細菌も呼吸していて、酸素が必要なのです。
だいぶ寒くなってきました。堆肥をひっくり返すと湯気が出てきました。堆肥が順調にでき始めているしょうこです。カビや細菌がたくさん増えて活発に呼吸をすると、熱が出てきます。温度計を持ってきて堆肥にさしこんでみました。四〇℃ほどありました。ぬるめの風呂(ふろ)の温度です。理想的な堆肥では六〇℃をこえます。このぐらいの温度になると害虫の卵や雑草の種子(しゅし)が死にます。
 冬を越し、新しいふるさとでの初めての春を迎えました。農作業の始まりの季節です。
堆肥置き場をひっくり返してみました。わずかですが、堆肥ができました。雑草は黒っぽくなり、ボロボロになっています。いやなにおいもありません。使えそうです。畑を耕し、堆肥をすきこみました。

山林の世話を始める
 春休みになりました。卒業生たち数人がフィールドワーク塾を開いてほしいと、やってきました。初日は、谷津田を案内し、春の野草の観察などをしました。二日目は、山林の世話をてつだってもらうことにしました。
 夏には身の丈ほどの高さがあった雑草は、春先には枯れていて、作業がらくです。また、山林の作業で危険なアシナガバチスズメバチはまだ大きな巣を作っていません。それに動き回っても大汗をかかないですみます。
 使う道具は草刈鎌やなた、のこぎりです。手のけがをしないよう、皮製の軍手も用意しました。これらは人数分を買っておきました。
 第一章で簡単に紹介したように、私の山林は長いあいだ放置されてきた果樹園です。高さが六mほどのメダケがおいしげっています。また、かってに生えたクサギなど落葉樹にフジやアケビのつるがからんでいます。どこから中に入ればよいのか分かりません。
茂みの中にモノレールの残骸が見えます。夏に来たときには気がつきませんでした。かつて、収穫したミカンを運ぶのに使ったのでしょう。このレールに沿って岩盤を削った階段がつけてあるようです。この階段を山道から山林の中への通路にしましょう。
 レールの両側に分かれ、メダケを切っていくことにしました。階段をのぼり始めるとすぐに、とげがズボンやシャツに引っかかりました。ノイバラです。つるがレールにからんでいます。つるを鎌やなたで切ってレールからとりはずさなければなりません。皮製の軍手がさっそく役にたちました。布製の軍手だと、とげがつきささってしまいます。
 のこぎりで切ったメダケは、山道まで運び下ろしました。山道では、なたで枝葉をはらい、三mほどの長さに切りそろえました。これは持ち帰り、畑でキュウリやトマトなどを育てるときの支柱にします。
 レールの右側のメダケの茂みを切っていた卒業生がミカンの木を見つけました。メダケにおおわれていたため、ヒョロヒョロです。本来なら、横にはり出す枝も枯れ落ちています。日が当たるようになり、これからミカンがついてくれることでしょう。作業を進めるにつれ、このようなミカンの木がなん本も見つかりました。
 果樹園の東のはしに大きなタブの木の枝がはり出しています。タブの枝の下のミカンの木がすっかりおおわれて、かげになっています。枝を落としたほうがよさそうです。木登りがとくいな卒業生が幹をスルスルッと登りました。そして、のこぎりとなたを使って大きな枝を切り落としました。まわりがいっきに明るくなりました。
 切り落としたタブの枝は太さが二〇㎝ほどはあります。これは薪ストーブで使えそうです。のこぎりで一mほどの長さに切って運び出すことにしました。のこぎりで丸太に切っていくのはたいへんな作業です。卒業生たちが交代しながら、のこぎりを引きました。チェーンソーという林業用のエンジンつきのこぎりをいずれは買わなければならないでしょう。
 急な斜面での作業でだいぶくたびれました。水筒につめていったお茶を飲んで、きょうの作業を終えることにしました。

第五章 自然との「共生」はたいへん

農薬を使わない野菜づくり
 私が育てる野菜は売り物ではありません。虫くいでもかまいません。形がいびつで小さくてもかまいません。おいしく、そして何よりも健康に問題のない安全な野菜を食べたいと思います。このため、鶏糞(けいふん)や牛糞(ぎゅうふん)、堆肥(たいひ)など有機(ゆうき)肥料(ひりょう)を畑にすきこんでいます。害虫や病気を防ぐための農薬は使いたくありません。雑草を枯らす除草剤(じょそうざい)も使いたくありません。このような野菜の栽培方法のことを無農薬(むのうやく)有機(ゆうき)栽培(さいばい)と呼びます。
 畑の土づくりを始めて二年。無農薬有機栽培が何とか軌道にのってきた感じがします。土がだいぶフカフカしてきました。鍬(くわ)で土を掘り起こすと大きなミミズが出てきます。以前には見かけなかった光景です。ミミズは「生きたトラクター」です。無農薬有機栽培を行なうときのたいせつな「なかま」です。
 ミミズは巣穴を作って生活しています。枯れ草などを巣穴に引き込んで食べます。糞(ふん)はたいてい巣穴の外に捨てます。ミミズの糞は、枯れ草といっしょに食べた土の粒をたくさんふくんでいます。糞そのものが団粒構造を持っているともいえます。このようなミミズの活動によって畑が耕されることになります。クソミミズという日本の草はらにふつうに見られるミミズは、四月から一〇月までの六か月の活動期間に一㎡あたり三・八㎏の糞を地表に捨てるという調査報告があります。この糞を地表にならすと厚さが三㎜になるそうです。
 しかし、いいことばかりではありません。荒地(あれち)が畑らしくなってくるにつれ、思いがけないことが起こり始めました。

耕地雑草の登場
 そのひとつは、荒地のときには見かけなかった雑草がいっきに増え始めたことです。冬から春にかけての畑には、ハコベナズナホトケノザなどがめだちました。なかでも紅紫色の小さな花をたくさんつけるホトケノザは、きれいなお花畑のようでした。夏になるとメヒシバ、イヌビユスベリヒユツユクサ、カヤツリグサ、イヌタデが生い茂りました。これらの雑草は畑に多く見かけるもので、まとめて耕地雑草と呼ばれています。耕地雑草の多くは、花が咲いて種子ができれば枯れてしまいます。そのかわり、たくさんの種子をつくります。一株あたりの平均で、ハコベが一六三〇粒、ナズナが九六〇〇粒、メヒシバが二三七〇粒、スベリヒユが二六四〇〇粒という調査報告があります。もっと大きくなるイネ(お米)では一〇〇〇粒前後ですから、耕地雑草はたいへんな数の種子をつくるということになります。耕地雑草をほうっておくとたいへんなことになるでしょう。
 さて、種子をまいたわけでもないのに、どうして突然といってもいいように耕地雑草が生えだしたのでしょうか。
周りの畑から種子が風に飛ばされて入りこんだのでしょう。しかし、それだけでは説明のつかないような数の雑草です。土の中にたくさんの種子があったのではないかと考えられます。
 私がここを耕す前は、放置された畑が荒地にかわっていました。荒地のときには、ヤブマオやクズという草が生い茂っていました。いずれも秋には種子をつくり、冬に枯れますが、地下の根は生き残っています。そしてこの根に栄養をたっぷり蓄えています。春になると太い根から大きな芽を出し、いっきに成長します。耕地雑草の種子がここに入りこんでも、ヤブマオやクズが大きな影を作っています。明るいところが好きな耕地雑草は、ヤブマオやクズにたちうちできません。
 私は、鍬で耕すたびにヤブマオやクズの太い根を掘り起こし、堆肥置き場に積みました。しだいにヤブマオやクズが消えて、耕地雑草が生える条件が整い始めました。
ここは、荒地の前には畑として使われていました。そのころは、土がせっせと耕されていました。そして、耕すたびに耕地雑草の種子が深いところにもぐっていったことでしょう。このようにして土の中にもぐって埋(う)もれた種子のことを埋土種子(まいどしゅし)といいます。
 耕すたびに深いところの土が地面に掘り出されます。このとき埋土種子も掘り出されることになります。埋土種子は明るい日の光を受けて永い眠りからさめます。そして、いっきに芽を出して育ちます。

耕地雑草がはびこると
 耕地雑草も野菜も植物のなかまであることでは同じです。
植物は光合成というはたらきによって自分で栄養分を作り出します。光合成は葉で行ないます。葉に太陽の光があたらないと、光合成を行うことができません。ほかの植物のかげになると、光合成をじゅうぶん行うことができず、枯れてしまいます。植物は茎をどんどん伸ばし、少しでも高いところに葉をつけようとします。これが植物どうしの光をめぐる競争です。
 野菜は人間が野生の植物を長い時間をかけてつくりかえた植物です。人間が世話をし続けないと、うまく育っていくことができません。耕地雑草はそれにくらべて、野生的です。しばらく雨が降らないで、野菜がしおれているようなときにも、耕地雑草はピンとしています。土に肥料分が少なくても、耕地雑草はどんどん伸びて高いところに葉をつけていきます。耕地雑草をそのままにしておくと、野菜が光をめぐる競争に負けて枯れてしまいます。
 光合成の原料は二酸化炭素と水です。二酸化炭素は空気からとりこみます。空気は常に動き、かきまぜらているので、二酸化炭素をめぐった競争はほとんどありません。水は土の団粒構造のすきまにあるものを、細かな根(正確には顕微鏡で見ないとわからないような根(こん)毛(もう))で吸収します。団粒構造のすきまには限りがあります。したがって競争が生じます。野菜と耕地雑草とが隣りあっていると、たいてい耕地雑草のほうが水をめぐった競争に勝ちます。なお、水には窒素分やカリウム分、リン分など肥料分が溶けこんでいます。肥料分をめぐった競争もあり、野菜は負けがちということになります。
 耕地雑草を放置したままにしておくと陸稲(おかぼ)(水田ではなく畑で育てるイネ)の収穫量は九〇%近くも減少するという研究結果があります。

生き物たちの世界が多様になってきた
 野菜の自給率を上げるため、いろいろな野菜を少しずつ栽培することにしました。野菜という生き物の世界が多様になりました。野菜を育てている畝の上にさまざまな耕地雑草が芽を出してきます。草抜きをちょっとサボると、野菜をこえるように伸びます。花をつけているものさえあります。野菜に耕地雑草が加わり、畑の植物の世界はいっきに多様になりました。
これにつれ、畑の昆虫たちの世界も多様になったようです。
 最初の年に植えたキュウリでは見かけなかったウリハムシが、今年はたくさんいます。さかんにキュウリの葉を食べています。カボチャの葉も食べています。ソラマメの茎にはアリマキがびっしりついて汁を吸っています。トマトの葉かげではカメムシがたくさん集まって汁を吸っています。キャベツではモンシロチョウの幼虫である青虫が何匹も葉を食べています。ニンジンの葉にはカラフルないもむしが葉を食べています。これはキアゲハの幼虫です。ホウレンソウやカブの若い葉には大きな虫食いあとがあります。しかし、虫はいません。昼間は土の中にもぐってかくれ、夜になると出てきて葉を食べる夜盗虫(よとうむし)や根きり虫がいるのでしょう。夜盗虫はヨトウガの幼虫、根きり虫はカブラヤガの幼虫です。これらの昆虫は野菜がなければ野菜と同じなかまの雑草を食べます。いずれも野菜に被害を与えるので、害虫と呼ばれています。害虫は野菜のほうがやわらかくておいしいから食べるのでしょう。
 ほかにもいろいろな昆虫たちが集まってきました。青虫やキアゲハの幼虫を肉団子にして食べるアシナガバチ。アリマキを食べるナナホシテントウ。これらは害虫を退治してくれるので益虫と呼ばれています。雑草や野菜の花にはミツバチなどハナバチたち、ハナムグリなどコガネムシたち、ハナアブ、ハナカミキリ、さまざまなチョウたちが集まってきます。これらは花粉を運んでトマトやキュウリ、ナス、エンドウマメなどをみのらせます。
 昆虫以外の小動物たちもたくさん見かけるようになりました。
 巣を張らないで植物の葉の上を歩きまわって昆虫を食べるカニグモやハエトリグモなどのクモが増えてきました。
 ナメクジやカタツムリは野菜の出てきたばかりの双(ふた)葉(ば)の芽を食べてしまい、たいへん困りました。
 アマガエルもかなりたくさんいます。アマガエルは昆虫やナメクジなどを食べるので畑にとってたいせつな小動物です。
 また、畑を耕したあとには、ムクドリという小鳥が群(むれ)でやってきました。そして掘り出された昆虫の幼虫などをたくさんついばんでいきました。
 モグラが畝(うね)に沿ってトンネルを掘ったこともあります。土にミミズが増えてきたためでしょう。ミミズはモグラの大好物(だいこうぶつ)です。
 野菜のかげからジムグリやアオダイショウなどのヘビが顔を出し、びっくりしたこともあります。ヘビはカエルも食べますが、モグラやネズミを退治(たいじ)してくれます。
ざっと、畑の生き物たちの世界をながめてみました。たいへんな種類数です。そしてこれらの生き物たちは「食う・食われるの関係」である食物連鎖によって複雑に結びついています。なお、食物連鎖の上位になればなるほど、数(個体数(こたいすう)といいます)は少なくなります。

自然との「共生」はたいへん
 自然保護や環境問題がクローズアップされるにつれ、自然との「共生」という言葉をよく聞くようになりました。「共生」は、もともと「二種の生物がある程度の結合をして互いに利益を交換し合う生活様式」(『旺文社生物事典』)という科学の用語です。環境問題ではこの言葉の意味がひろげられました。国語辞典では「生あるものは、互いにその存在を認め合って、ともに生きるべきこと」(『新明解国語辞典』)と説明されています。環境問題では国語辞典の説明のような意味で使われています。
 私の畑づくりは、環境問題解決のためのひとつの道すじとして始めたことです。野菜などに被害を与える雑草、害虫も「生あるもの」です。だから、「生ある」雑草や害虫と「ともに生きるべき」といわれても困ります。野菜を作る畑であるいじょう、雑草や害虫はとりのぞかなければなりません。このとき、徹底的にとりのぞくことはしないということが必要なのでしょう。これが除草剤や殺虫剤など農薬を使わないことの意味になります。
しかし、暑いさかりの草ぬきや草刈はたいへんな作業です。また、野菜の葉を一枚ずつひっくり返して青虫やいも虫を探してピンセットでつまんでつぶすのもたいへんな作業です。夜盗虫(よとうむし)の退治(たいじ)は、夜中に懐中電灯で照らしながら探さなければなりません。
 このような作業では、ぬかれなかった雑草が必ずあります。草刈の場合には、地面近くの茎や根が残ります。これらは、しばらくすると再び大きく育っていきます。また、ピンセットでつままれなかった青虫やいも虫が必ずいます。これらは、アシナガバチやクモ、カエルのえさになります。農薬を使えば青虫やいも虫など害虫を根絶やしにするだけでなく、アシナガバチやクモ、カエルのような役にたつ小動物も殺してしまいます。
モグラが畝にトンネルをつくると、野菜の根が大きく切られてしまいます。モグラを捕まえるわなもありますが、殺してしまうのは問題がありそうです。食物連鎖の上位に位置しているモグラは数が少ない動物だからです。モグラは畑から追い出すことにしました。ペットボトルを風車にしてカタカタする音で追い出す方法があります。畑は家に近いのでこの方法だとうるさくてたまりません。ホームセンターでソーラー式モグラ撃退器を見つけました。太陽光で発電し、人間には聞こえない音波を出してモグラを追い出す器械です。効果はあるようです。
 こうして畑の多様な生き物たちが生きのびました。このなかには雑草や害虫もいます。そして、複雑な食物連鎖が維持されていくことになります。
 年末年始にしばらく家をあけました。寒くなってきたので害虫の心配はありません。しかし、帰ってきてびっくりしました。ブロッコリーの葉が葉脈だけになっているのです。もちろん食べられるようなブロッコリーも残っていません。あたりは野鳥の糞だらけです。ブロッコリーの上でときどき見かけたヒヨドリが「犯人」のようです。家に人がいないので安心して食べに通ったのでしょう。
また、今年の秋は収穫まぢかの落花生(らっかせい)(ピーナツ)が一晩ですっかりなくなってしまいました。落花生の隣に植えておいたワケギの茂みが、大人がお尻をおろしたように丸く窪んでいました。夜行性(やこうせい)のハクビシンが座りこんで落花生を食べたようです。落花生のできがよかっただけにがっかりしました。
 自然との「共生」はほんとうにたいへんなことだと思います。

第六章 村の一年

菜の花畑
 村の農家の多くは兼業農家です。長男は会社や農協、役所などに勤めています。このような農家では、ふだんの農作業はたいてい年寄り夫婦と長男のお嫁さんとで行っています。また、ほんのわずかですが、専業農家もあります。農家は米とビワつくりを中心に農作業を行っています。稲刈り終えてしばらくすると、田んぼをすき返して畑に変え、菜種(なたね)を育てる農家もあります。
 春先の村でめだつのは、菜種の黄色い花です。ふつう菜の花(なのはな)と呼んでいます。むかしは菜種の種子をしぼって菜種油をとっていました。いまでは菜種油が目的ではなく、つぼみと若い葉を収穫します。浸し物(ひたしもの)や和え物(あえもの)などにして食べられている菜(な)花(ばな)です。菜花は茎の先端にできます。はさみやナイフを使ってていねいに収穫します。収穫は十二月から始まります。しばらくすると、わき芽が育ち、また菜花を収穫できます。二月まで、四、五回の収穫が続きます。こうした収穫をまぬがれたつぼみが黄色い花を咲かせているのです。
 菜の花にはたくさんのミツバチが訪れ、さかんに蜜(みつ)を集めています。村にはミツバチを飼育している養蜂家(ようほうか)もいます。ミツバチの世話をしていたおじさんに、蜂蜜(はちみつ)の味見をさせてもらいました。ほのかに菜の花のにおいのするあっさりした甘(あま)さの蜂蜜でした。

代(しろ)かき
 三月。菜の花の季節が終わると、田んぼがにぎやかになります。耕運機がさかんに動き回り、田んぼをすき返しています。代(しろ)かきの始まりです。イネの切り株とともに、田んぼに生えていたナズナやタガラシなどの雑草もいっしょに土にすきこまれていきます。かつてはゲンゲ(レンゲソウ)を育ててすきこむ田んぼがたくさんありました。ゲンゲはマメ科の草で、根粒(こんりゅう)菌(きん)が共生した根にたくさんの窒素分を持っています。すきこまれたイネの切り株や草は、やがて腐って田んぼで育てるイネの肥料になります。
 土をすき返したあと、田んぼに水を引き込みます。そして、耕運機に代かきロータリーをつけて、田んぼの表面の土をどろどろにします。こうして、田植えの準備が整っていきます。
 田んぼに引く水は、谷津のつきあたりにある池の水を使います。池の水門を開けて、上の田んぼから下の田んぼへ、水をつぎつぎと落としていきます。
池は谷津のつきあたりの狭い谷を土手(どて)でせき止めて作ったため池です。大きな川のないこの村では、山のすそのからわずかにしみ出てくるわき水や、雨のとき山を流れおりる水を大切にためているのです。

ビワの袋かけ
 三月にはもうひとつ、大切な仕事があります。果樹園のビワの世話です。冬に咲いたビワの花が終わり、枝先にいくつもの小さなビワの実ができ始めています。このうちの一、二個を残してあとは摘みとります。摘果(てきか)という作業です。摘果をすると、残されたビワの実が大きく育っていきます。また、残されたビワの実に紙の袋をかける仕事も平行して行われます。袋かけです。袋をかけると、ビワの実の害虫であるカメムシの被害を防ぐことができます。やわらかなビワの実が、葉やほかの枝に触れて傷つくのを防ぎます。また、ヒヨドリのような野鳥に実をつっつかれるのも防ぐことができます。
 摘果や袋かけは、すべて手でおこなう作業です。山の急な斜面にはしごや脚立(きゃたつ)を立てて行うたいへんな仕事です。ビワの収穫は六月です。

田植え
 田植えに使うイネの苗はビニルハウスで育てられています。五月の連休のころ、田植機を使って田植えがいっきに行われます。田植機では植えつけができない田んぼのかどやはしは、手で植えつけます。
田植えが終わった田んぼには、銀色のビニルテープを先にくくりつけた竹ざおが何本も立てられます。水をはった田んぼにサギという大型の水鳥がおり立つのを防ぐためです。サギはきらきら光るビニルテープが嫌いのようです。こうすれば植えたばかりのイネの苗をけちらかされません。星あかりでもテープは光るので、夜も行動するサギがいやがるということです。
 農家の人は朝早くから田んぼを見回ります。枯れかかった苗があれば、田んぼのはしにまとめておいてある苗を使って植えなおします。また、田んぼの水の量の調節も念入りに行います。

田んぼのにぎわい
 田植えを終えたイネの苗はどんどん伸びます。また、泥に埋もれていたタイヌビユなど田んぼの雑草もいっきにのびてきます。雑草をほうっておくと、お米の収穫が少なくなってしまいます。また、稲刈りのとき、イネに雑草が混ざり、やっかいです。それで、朝涼しいうちに草取りをします。除草機を運転して草取りをしますが、細かなところは腰をかがめて手で抜き取ります。暑いさかりの田んぼの草取りは重労働です。
 あおあおとのびたやわらかなイネは、虫たちにとっておいしいごちそうです。ウンカやヨコバイ、カメムシは針のような口をさしこんでイネの汁を吸います。このとき、ウィルスを感染させてイネを病気にすることがあります。稲(いね)つと虫(むし)(イチモンジセセリというチョウの幼虫)、二化(にか)めい虫(ちゅう)(ニカメイガというガの幼虫)、ゾウムシはイネの葉や茎をかじって食べます。
また、これらの害虫を食べる虫やクモたちもたくさん集まってきます。とりわけ、クモたちの活躍がめだちます。
さらには虫やクモをねらうカエル、カエルを食べるコサギアオサギなどサギのなかまの水鳥もたくさん訪れます。夏の田んぼはさまざまな生き物たちで大にぎわいです。
 害虫を駆除(くじょ)し、イネの病気を防ぐために、農薬がときどき散布(さんぷ)されます。また、ひと夏に一回は小型ヘリコプターを使った農薬の空中散布も行われます。このときには、害虫だけでなく、害虫を食べる益虫やクモなども死んでしまいます。心がいたみますが、農家がお米を生産するためにはいたし方のないことでしょう。

稲刈り
 夏の田んぼを見ていると、いつも水があるわけではありません。ときどき、水がなくなって田んぼの地面がひび割れています。ひびから土の中に空気が入り、イネの根に酸素を送ります。根がずっと水びたしだと、じゅうぶんに呼吸ができません。田んぼの水の管理も農家の人の大切な仕事です。
 八月になると、イネの花がいっせいに咲きます。花粉をいっぱいつめた雄しべのやくがとても印象的な薄緑色の花です。イネは風媒花ですので、たくさんの花粉をつくって風で飛ばします。
八月も終わりになると、それまで緑色だったイネがだんだん黄色くなっていきます。そして稲穂(いなほ)がたれてきます。いよいよ稲刈りの季節です。田んぼの水を落として、稲刈り機が入れるように土を乾かします。刈り取られたイネは、つぎつぎとたばにされます。これを丸太や竹で組んだ稲架(はざ)にかけて、お日さまで乾かします。こうするとおいしいお米になります。
 また、コンバインでイネを刈りながらどんどん脱穀(だっこく)する方法もあります。脱穀の終わったイネわらは、細かに切られて田んぼにまき散らされていきます。収穫されたもみがらつきのお米は、農家組合のセンターに運ばれ、乾燥機で乾燥します。

冬のしごと
 稲刈りが終わると、田んぼや畑で仕事をする農家の人をあまり見かけなくなります。むかしは、山仕事が中心になる季節でした。かまどの焚き付け(たきつけ)に使う落ち葉や枯れ枝を集めました。また、マテバシイなどを切り倒し、まきを作ったり、炭焼きを行っていました。まきや木炭は、家庭で使う重要な燃料でした。昭和三〇年代の終わりには、灯油やプロパンガスが普及し、焚き付けを集めたり、まきや木炭を作ることがなくなってしまいました。
 もうひとつ、「もくずひろい」も農家の大切な仕事でした。海岸に打ち上げられたアラメなどの海藻を拾い集め、積み重ねます。そして、雨に打たせて塩を洗い流して腐らせます。こうすると田んぼや畑にすきこむことのできる肥料になります。今では、海藻を肥料として使うことはなくなりました。それでも、冬の海岸に打ち上げられるワカメやテングサ、ヒジキなどをたのしみとして拾い集めることは今でも行われています。
 いまでは秋の終わりから冬にかけての農家の外(そと)仕事(しごと)は、ビワの世話が中心です。伸びた枝をはさみで切り整える剪定(せんてい)、根もとに牛糞などの肥料をすきこむ仕事などです。また、内仕事として耕運機や田植機など農業用重機(じゅうき)の整備(せいび)などがあります。
冬の終わりにあぜ道や土手などの枯れ草に火を入れて焼く、野焼き(のやき)を行う農家もあります。野焼きは冬を越した害虫の卵や蛹(さなぎ)などを焼き払う効果があるとされています。

第七章 村に暮(く)らすということ

プライバシーってなに?
 大都市では多くの人が高層(こうそう)マンションに暮(く)らしています。壁(かべ)や床(ゆか)・天井(てんじょう)で隔てられた「部屋(へや)」が隣(となり)の家です。子どもが小学校に通っているあいだはともかくとして、子どもが大きかったり、居なかったりすると、隣の家とはほとんど交流がないでしょう。それぞれの家庭や家族についてはお互いにほとんど知っていることはありません。ドア一枚を隔ててプライバシーががっちり守られています。近所とのつきあいのわずらわしさを避(さ)けることもできます。このようなことでマンションでの暮らしを選ぶ人もいます。
 村では隣の家は広い敷地(しきち)や畑などでだいぶ隔てたれています。隣の家のもの音などまったく聞こえてきません。ようすも見えません。それでも「きのうは学生さんがみえていましたね」とか「なにを植えましたか」、「お留守(るす)でしたね」などと言われることがあります。ちょっとした変化を村の人はきちんと見ているのです。極端に言うならば、プライバシーなどないのです。これをどのように考えるかは、村で暮らすときに大切なことです。
 先日、交番から巡査が家庭調査に来ました。このときの雑談で「町では空き巣の被害がありますが、このあたりは今まで被害はないですよ。でも、家を空けるときには戸締りはしてください」と言っていました。村の人びとが村のようすをなにげに見ていることが犯罪を防いでいる・安全な暮らしを保障していると言えましょう。それこそ村ではお互いがお互いを見守っているのです。
 私は、村に暮らしているのだから、プライバシーを多少は犠牲(ぎせい)にしてもかまわないのだということにしました。あけっぴろげの家にしてしまおうということです。なにか問題があったら、村の人はきらくに私に伝えることができるでしょう。また、誤解があっても私自身の生き方そのものが、それを解いていくことになるだろうと考えることにしました。

村でのおつきあい
 農家が中心の村です。農家の集まりである農家組合が村の運営を切り盛りしています。私も山林を持ち、畑を耕していますが、これで生計を立てているわけではありません。私の家は農家ではないので、農家組合に入ることはできません。村の人びとは、私の家をどのように扱ってよいのか戸惑いがあると思います。
 村には鎮守(ちんじゅ)の神あるいは産土(うぶすな)神をお祀(まつ)りする小さな神社があります。鎮守の神は土地をしずめ守る神様です。産土神は村人の生まれた土地を守る神様です。この神社は拝殿(はいでん)だけで神主(かんぬし)は居ません。無住の神社ですがいつもきれいになっています。村に暮らし始めた年の夏、近所の人から「夏なぎ」に出ませんかと言われました。村の行事へのはじめての参加です。早朝に神社の境内の草抜きや掃除をする行事でした。世間話(せけんばなし)をしながらの作業は、一時間ほどで終わりました。「夏なぎ」を通して村の人びとと顔見知(かおみし)りになることができました。
八月の初めには近くの村や町といっしょの大きな祭があります。村や町ごとにみこしが出ます。おとなのみこしのほかに、子どもみこしもあります。七月の終わり、近所の子どもが「お花」を売りに来ました。「お花」は家の入り口にみこしを迎えるときに飾る造花(ぞうか)です。太い竹ぐしにピンク・水色・黄色の三色の折りたたんだ仙(せん)花紙(かし)がくくりつけられています。村や町によってこの三色を並べる順序が違っています。夏休みに村の子どもたちが作ったもので、この代金が子ども会の活動資金になるのです。祭りの当日、みこしを先導(せんどう)する村の役員に祝儀(しゅうぎ)袋を渡し、鎮守の神のお札(ふだ)をいただきました。私の家には神棚(かみだな)はないので、玄関にお祀(まつ)りしています。
 村のある家でおじさんが亡くなりました。耕運機を運転しているおじさんとなんどか話したことがあります。近所の人が通夜(つや)と葬儀(そうぎ)の日程を知らせてきました。どのようにお悔(く)やみすればよいのかわかりません。また、手伝いはどうなっているのでしょうか。「お宅は手伝いをしなくてよい。焼香(しょうこう)と『村(むら)香典(こうでん)』をお願いします」といいます。「村香典」は五百円玉を半紙で包んで村香典と書くのだそうです。じつは、村に暮らしてから農家のご不幸を知ったのはこれで二度目です。「こんどは、話をしたことがあるだろうから知らせた」ということです。これが、農家ではない家に対する少し距離をおいた接し方なのでしょう。

農村の美しい景観を維持する
 秋の終わりに農道の刈り払いがありました。土手の草を刈り、農道にせり出している木の枝を切り払う作業です。村の農家が総出でおこないます。これは、危険だから参加しなくてよいといわれました。また、冬のはじめに農道をなおす「道普請(みちぶしん)」も村の農家が総出でおこないますが、声をかけられませんでした。このような作業をおこなっておかないと、トラックや耕運機など大型の農業用重機(じゅうき)を安全に運転できません。私も軽トラックで山林に入るためにこの農道を使います。なんの手伝いもしないのは心苦しいことですが、ふなれなので、いたし方ありません。ただ、「作業のあとのお茶代をお願いしますよ」といわれました。
 私は、これまでさまざまな地域の農村を歩き、美しい景観(けいかん)を楽しんできました。農村の景観が美しく維持されているのは、農家の人びとの労力(ろうりょく)の結果だと頭ではわかっていました。農業をきちんと行うために農家の人びとのたくさんの人手とお金が費やされています。村に暮らすようになって、このことをあらためて実感できました。そして、このような農家の人びとのいとなみの結果、農村に美しい景観がつくりだされ、維持されているのです。

「ビワの収穫を体験してみますか?」
 村で、三度目の初夏を迎えたころのことです。近所の農家のおばさんに、「学生さんに山のビワの収穫を体験してもらったらどうだろうか」と声をかけられました。
山でのビワの収穫は、急斜面に脚立(きゃたつ)をたてたり、木に登ってビワを摘(つ)み取ります。また、ビワはやわらかくて皮に傷がつきやすい果物です。このため、ビワの収穫はかなり高度な作業だと思います。私の家にときどきやって来て、畑を耕したり、山の仕事をしている卒業生たちの腕前(うでまえ)を見込ん(みこん)でくれたのでしょう。さっそくメールをして四人の卒業生を集めました。
 細い枝までするする登り、ビワを摘む卒業生の姿に農家のおばさんはびっくりしていました。「ビワより治療費のほうが高くつくよ」とおじさんに冷やかされながら、私もビワ摘みに夢中になりました。お礼に食べきれないほどビワをいただきました。
 ビワの収穫で、卒業生たちの働きぶりに感心したおばさんは、「稲刈りもやってみないか」と誘っていました。卒業生たちは誘いにのり、八月の終わりに稲架(はざ)かけや脱穀(だっこく)を手伝いました。私のところを訪れる卒業生たちを通し、村の人たちとの付き合いがさらに深まることになりました。

第八章 ふるさとを見つめなおそう

村の生垣
 気に入っている村の景観(けいかん)がいくつかあります。その一つは農家の屋敷(やしき)をとりかこむ生垣(いけがき)です。生垣は道沿いに作られていますが、とりわけ西側のものがりっぱにしたてられています。生垣は、冬の村にときどき富士山から吹き降ろしてくる冷たい北西の風を防いでくれます。生垣にしたてられるのはイヌマキという常緑の樹木です。高いものでは四メートルを越えます。イヌマキの成長はあまり早くありません。私の隣の農家の生垣は高さが二メートルほどですが、したて始めて三〇年になるといっていました。村を歩くといたるところにイヌマキの生垣があります。視界いっぱいに濃い緑色が広がります。濃い緑色の生垣を眺めながら道を歩くと、心が和んできます。ほかの人もきっと同じだと思います。これは村にとっても大きな「財産」です。落ち着いたたたずまいである村の景観をつくり出すからです。
 先日、近所で長いこと空き家になっていた農家が取り壊されました。この農家にもりっぱなイヌマキの生垣がありました。百年近くにわたってしたててきた生垣でしょう。新しい宅地に造成しなおす工事で切り払われてしまいました。土地を手に入れた人にとって新しい家を建てるときにじゃまだったのかもしれません。それにしても、村の美しい景観の一部がなくなってしまったことは、ほんとうに残念です。

村の土手
 村が丘陵に囲まれていることは第三章でお話しました。古い農家は丘陵に接する段丘の上に広がっています。地形が丘陵から段丘へ変わるところ、段丘から田んぼの広がる低地へ変わるところにゆるい斜面ができます。また、丘陵を削って段々(だんだん)畑(ばたけ)を作ると、段と段のあいだに新しい斜面ができます。自然にまかせておくと、土の性質にあった傾斜が作り出されます。このゆるやかな傾斜をもった斜面が土手です。狭い谷に土砂を盛って、土手を築いてため池を作ることもあります。これはやや特殊な土手です。よく世話をされた土手も村の美しい景観のひとつです。
 土手には大きな木は生えていません。草刈をしばしばおこなっているからです。木が生えていても、クコやノイバラのようなあまり大きくならないものだけです。土手は草の世界だといってよいでしょう。さまざまな草が生えていますが、いちばん多いのは多年草のヤブマオです。太い根をはって、斜面の土を押さえています。いろいろなスゲのなかまもめだちます。
秋もおわりになると、スゲをのぞいて草の葉や茎がつぎつぎと枯れていきます。そして、冬が近づくと、スイセンが芽を出し始めます。冬から春にかけて土手のところどころにスイセンの大きなお花畑が登場します。
 春先の土手にはカントウタンポポヘビイチゴの黄色い花がめだちます。ホタルカズラが、るり色の花を咲かせていることもあります。ツクシやフキノトウなどの摘み草(つみくさ)を楽しむこともできます。
 初夏の土手の代表的な花はホタルブクロです。薄紫色のつりがね型をした花にマルハナバチがよく訪れます。
だいだい色をした大きな花を咲かせるカンゾウは夏の土手を華やかに彩ります。
 秋になると真っ赤な色のお花畑をつくるヒガンバナもみごとです。
 季節によってさまざまないろどりを見せてくれる土手も村の大切な景観です。村にとって大きな価値がある財産だと思います。土手の草刈りはたいへんな作業ですが、たびたびおこなうことによって美しい景観が維持されています。
 残念ながら、新たに宅地造成がおこなわれると、土手は垂直にそそり立つコンクリートのよう壁(へき)に変えられてしまうことがあります。土手を土でおおってコンクリートの壁で押さえてしまえば、利用できる宅地の面積が広くなるからです。

景観がこわれていく
 生垣や土手を維持するにはたいへんな労力が必要です。
 生垣の手入れは、道路や庭に高い脚立を立てなければなりません。脚立の上に立ち、両手を使って大きな枝きりはさみで刈りそろえていきます。植木用の電動バリカンを使うこともあります。いずれにしても危険な作業です。道路の作業では自動車や下を通る人にも注意しなければなりません。これらの作業を農家の人は、たいてい一人か二人でおこないます。植木屋さんにたのむとお金がだいぶかかります。
足場の悪い土手でエンジンつきの刈り払い機を使う作業は私もしますが、たいへんくたびれます。これもひとにたのめばお金がかかります。
 こうした作業に対する金銭的な援助あるいは労力提供はどこからもありません。先祖からうけついだもので、代々おこなわれてきた作業だから続けているということがあると思います。また、祭のおみこしをお迎えするのだから、土手の草はきれいに刈りとり、生垣もさっぱり刈りこんでおうという気持ちがあるのかもしれません。
 しかし、生垣や土手はそれぞれの家の持ち物です。村の景観を美しくするためにこれらをもっているわけではありません。自分の家の持ち物ですから、生垣を切り払ってブロックの塀(へい)にしてしまおうが、土手を埋め立てて、よう壁を作ろうが、それこそ自由です。

「アメニティ」という考え方
 生垣や土手、さらには農家の古い家屋(古民家といいます)、庭木、果樹園、畑、田んぼなど、みんな個人の持ち物です。いっぽう、これらがつくりだす村の景観そのものには持ち主はありません。しかし、村の人びと、さらには村を訪れる町の人びとも、この村の景観を楽しむことができます。
 景観を楽しむというようなことに価値を認める考え方を「アメニティ」といいます。大きな英和辞典には「アメニティ」とは、「(場所・環境などの)好ましさ、快適さ、心地よさ」とあります。この価値は持ち物と違ってお金に換算することはできません。しかし、村にとってとても大切な価値のある財産です。
 村に「アメニティ」があり続けるには、生垣や土手、古民家などの持ち主である農家の人びとが、「アメニティ」の大切さをしっかり理解しなければなりません。また、村を訪れて「アメニティ」を楽しむ町の人びとも「アメニティ」がどのようにしてつくりだされているのかをしっかり理解しなければなりません。そして「アメニティ」という考え方をとおして村の人びとと町の人びととの交流が始まればいいなと思います。

ふるさとの「価値」・「財産」を探そう
 みなさんは村や町に暮らしています。あなたが暮らしているところが、あなたのふるさとです。ふるさとには、あなたの気がついていない「アメニティ」があるはずです。ふるさとの「アメニティ」を探す探検を始めましょう。探検の次は調査です。そんなに難しく考える必要はありません。人びとが村や町のどんなところ・どんなことに「好ましさ、快適さ、心地よさ」を感じているのかを聞いてみましょう。どんなところ・どんなことに誇りをもっているのかを聞き取ってもよいでしょう。観察することも大切な調査です。「アメニティ」をどのようにしてつくりだしているのか、どのようにして維持しているかをじっくり観察すればよいのです。作業をしている人からお話をうかがうのもいいですね。
 みなさんが発見し、調査した「アメニティ」を村や町の人に知ってもらうことも大切です。手書きの壁新聞、ミニコミ紙、パンフレットならすぐに作れるでしょう。あなたの村や町からの小さな声が波紋のように広がりほかの村や町の人びとの声と響きあえばどんなにすばらしいことでしょう。